


「メタミュージック」での、僕の映像作品はリュック・フェラーリの「偶然的出会い 」(2003)とのコラボレーションだ。というか、フェラーリの作品の演奏に、僕の映像が付く。
コラボレーションといえば、有名なノーマン・マクラレンとオスカー・ピーターソンの短編映画「色彩幻想」(1949)では、まずピーターソンがピアノの即興演奏を行い、マクラレンがそれにシンクロするアニメーションを作り、その完成映像を見ながら再度ピーターソンが即興演奏をする…という手の込んだ「模範解答」で制作されている。が、フェラーリは故人だから無理です、南先生。
とはいえ、音楽に合わせたPV的映像を作るということは楽だけど、映像表現の自律性ということでは下の下。結局、生意気だが下記のようなスタンスでの制作とさせてもらった。
今回の「コラボレーション」とは、劇伴やプロモーション・ビデオを作ることと
は違う。お互いの批評ですらない。フェラーリが手がけた音の「偶然的(に聞こ
える)出会い」に、1本の映画が「偶然的(に見える)出会い」を持つというこ
とは、「構築」ではなく「玉突き事故」に近いものになる。音とイメージが歩み
寄ったり対立したりの時間の旅を通し、予定調和が期待できない、人間存在のよ
うな「偶然」が浮かび上がればうれしい。(プログラムより)
そういうわけで、まずはフェラーリと「偶然に出会う」映画を1本用意する必要があった。1970年代に作られた、地震予知をテーマとした教育映画2本を素材に、二十数分の映像作品を制作した。
フェラーリは2005年に亡くなっていて、現在の世界を知らない。だから、タイムスリップをしたように、過去の人と対話しなければならない。だから、かつて生きていた人とコラボレーションを、過去の視点で現在を予見した映画を使うことから始めることは、僕には当然のことに感じられた。(ちなみに、テレビなどで「◯◯が生きていたら“◯◯”と言うだろう」というようなコメントを聞くことはあるが、そんなことがあるはずが無い。その人はもう死んでいて、存在しない。)
そうやって作った映画をそのまま、楽曲(CD)と共に上映してみたら、それはそれで面白いものだった。音楽と映像がピタリと合ったり、離れたりする。時間的なタイミングだけではなく、映像と音楽が何かの意味を醸成したりする瞬間がある。ただ、それは鑑賞者の脳の反応・関連付けの手癖のようなものであり、ロールシャッハテストのようなものだ。本当の意味での「偶然的出会い」だし、音楽と映像は自律的存在だ。
だから、これで制作を終わってしまってもいい(し、僕自身としては満足な)のだが、それでは(一方的とはいえ)コラボレーションとしての「表現」は希薄だ。要するにモーツァルトの楽曲と高校野球の中継映像を同時に流しても「偶然的出会い」は成立してしまうので、フェラーリである必然性は無い。もう少しフェラーリの「偶然的出会い」に寄り添ってみることにした。





