編集部から記事などのカットを描くアルバイトをもらい、小さなカット1点が3000円とか5000円とか話していた。こちらも子どもだから「大したものだ」と思った。バイトの時給が450円くらいだった時代の話である。
大学受験の結果の方は、武蔵野美術大学の視覚伝達デザイン科という当時の花形の専攻に入学。一浪で当り前の専攻だから、優秀だったのだと思う。
ちなみに、滝沢聖峰や僕は見事、浪人となり、新宿御苑付近の美術予備校に通うことになった。そしてデッサンよりも平面構成よりも(なぜか)同人誌活動にのめり込んで、さらにもう一浪することになる(そりゃそーだ)。
今考えてみると、講師は芸大生の田中紀之(タナカノリユキ)さんだったり、学生にも片塰満則、横森理香、箭内道彦なんてのがいた。総じて面白かった…ということになるのだろう。
余談だが、そのタナカさんの映像初作品は、大林宣彦監督の映画「時をかける少女」(1983)のプロップの絵本だ。予備校の友人に前田青(前田青邨、ではない)というSF・特撮マニアがいて、彼は大林千茱萸さんの明星学園の同級生だったので、そのツテで描かされたというわけ。大林監督を尊敬していた当時の僕としては「すごいですね」と思ったが、「自分の作品じゃないからつまらない」とまっとうな答えのタナカ氏であった。
そのころの新宿は、今とは違う意味でオタクっぽい街だったので、今敏もちょくちょく出てきて会っていたのだと思う。
3丁目の末広亭の近くの喫茶店でずいぶん粘ってとりとめもなく話をしたり、マンガのネームだったか下書きみたいなものの感想を求められたりした記憶がある。あまりに粘るので、喫茶店で(「帰れ」というサインの)昆布茶が出て、その後さらに路上で座って話していた。
当時の秋葉原はただの電気街で、サブカルなら新宿だった。
もともと映画館が多いし、紀伊國屋書店ではマンガの原画展(特に青林堂)が何度も開かれ、西武新宿駅には書原のマンガ専門店があり、御苑の近くにはラポートのアニメック、国際プロレスの本部があった羅府会館(ラシントンパレス)の2階には、ふゅーじょんぷろだくとがフリースペース(同人誌即売所)を営業していた。後には、白夜書房が南口の高架下にまんがの森をオープンした。
また、新宿や渋谷には「ビデオ喫茶」というものも多かった。これは未公開の映画(主にSFやホラー)のビデオを個人輸入して(字幕無しだが)見せる商売。今のように貸ビデオ店はなく、傑作「ドラゴンスレイヤー」(1981)、ジョージ・A・ロメロの「クリープショー」(1982)、クローネンバーグの「ビデオドローム」(1982)などは未公開だったので、そういうところで見た。

荒木飛呂彦さんの初期作品「バオー来訪者」に登場するモンスター「マーチン」は、「クリープショー」の第4話「開封厳禁」のオマージュだったりしたため、荒木さんはホラー映画ファンの信頼が非常に厚かった。
その時代のオタク情報源は、雑誌「スターログ日本版」。ラフォーレミュージアムのディレクターや、講談社の手塚治虫全集でも知られるアート・ディレクターの鶴本正三さんが刊行していた。(ちなみに、鶴本正三さんは、現代美術作家の太郎千恵蔵さんのお父さん。)
「国際SFアート大賞」なども主催しており、これは雨宮慶太さん、永野護さんなど、現在のプロが多く応募していた。若者たちは毎月この雑誌を読みながら、SF映画をオクラにする配給会社を呪い、新作ホラー映画見たさにジリジリしていたわけである。(ダークな青春だ、まったく。)

また、海外のSFの画集を手に入れるため、紀伊國屋や銀座のイエナにも通った。シド・ミードの「SENTINEL」など、ドラゴンズ・ドリーム社の画集は人気が高いため、買うのも一期一会だった。
つまり、SFやホラー映画ファンであるということは、趣味以上に、教養的な努力が必要だったのである。今敏が私淑する黒澤明の映画なども、特集上映などを除いてはなかなか見る機会はなかった。
そういう意味では、今より格段に情報的に貧しい時代であり、一次情報には自分でにじり寄っていくしかなかった。
やがて、今敏は1984年に「ちばてつや賞」を受賞して、「ヤングマガジン」で前途洋々の若手マンガ家としてのスタートを切る。
が、ちばてつや賞(講談社)と聞いたときは驚いた。島本和彦さんの「アオイホノオ」や、「山田のこと」の巻末インタビューで上條淳士さんも述べている通り、当時の「少年サンデー」は、他誌と比べてマニアックなラインナップだし、今敏がそこでデビューするということは自然なことのように思われたからだ。
まぁいろいろ思うところあってだろうが、やはり「ヤングマガジン」大友克洋さんが「AKIRA」を連載していたことが大きいと思う。
つまり、勉強家・今敏は自分でにじり寄っていったのだと思う。
(つづく)
※今敏の仕事について記述するには、その時代背景についても書かねばならず、(ワタクシの常として)脱線も多いと予想されるので、タイトルを変更しました。