が、この映画については、つべこべいう言葉をあまり持たない。
山崎貴監督はワタクシたちご同輩のノスタルジー(という針のむしろ)は無視できるわけがないが、フツーの、今どきの若者がデートで楽しめなかったら、それはそれでヒット作にはならないことも、当然解っている。
そういう視点での映画制作は、金子修介監督・樋口真嗣特技監督の「ガメラ3 邪神<イリス>覚醒」(1999)の興行的惨敗で証明済みだし、ヒットした「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」(2007/2009)もメディア等で語る(語りたい)のがいい歳したオッサンたちだけで、動員の中心は若者だろう。
だから、この映画は始めから、いわゆる「宇宙戦艦ヤマト」(1976)にならない。当り前だ。
そういうわけで、実写版「ヤマト」は、当然、「普通のB級スペースオペラ映画」とか、ややバランスの悪い「SFラブロマンス」になっていた。(バランスを良くするためには、「ヤマト」の要素をすべて外した方がよい。)
「スタートレックIII/ミスター・スポックを探せ!」(1984)とか「キャスパー」(1995)が駄作というのならば、この映画も駄作ということになるだろうが、フツーのお客さんにとっては、プロやマニアが力みまくった「さよならジュピター」(1984)とか「トゥルーライズ」(1994)よりは、楽しめる映画なんじゃないですか。(ダメ映画好きの僕は、後者でいいです。)
常識的に考えれば、主人公がキムタクなんだから、これはもう超豪華コスプレバラエティー番組といして楽しむ以外はもう野暮だ。(おわり)
…というのも無責任なので、もう少し続けます。
まぁ、前半は感動する瞬間も数カ所ありました。
ただ、それは、目の前に展開するCGの映像から、脳内ヤマトデータバンクの「オリジナル版」(アニメ版)へのリンクして、元のシーンを思い出して追感動するという、とにもかくにも忙しいものであった。
たとえば、冒頭のナレーションはささきいさおによるのだが、「ちょっとテンポが早すぎるな〜。木村幌さんだったらこんな感じね…」と想像して、それを今観ている映像に脳内合成して「おお〜」と感動する…とかそんな感じ。まぁ、感情移入力を試されるというか、依憑(よりわら)やカラオケみたいな映画と言えるだろう。
こっちもいい歳だから、そういうソフトランディング的な「操作」に途中で疲れてきて、小マゼラン雲に着くころには、ボーッとして「よきにはからえ」てな感じになっちゃったけど。
ただ、この実写版を見ることによって、そもそもの「ヤマト」を、新たに理解した点というのはある。「絵空事」のアニメが実体を持った時に、様々なリアリティが立ち上がったり、ほころびたりする。
軍人らしい人が一人もでてこない!
それは、もともとの「ヤマト」が少年兵たちの物語だったということだ。
と言っても、18歳であるはずの古代進がキムタク(38)だったり、島大介もオッサン(43)だったりで、ミスキャストだったとか難癖をつけたいわけではない。
大熱演する中年のメインキャスト(って、緒形直人と柳葉敏郎と西田敏行だけだが)をよそに、周りの兵隊たちがフラフラしたモデルみたいな若い連中(ほとんど学園もののノリ)ばかりだったのが「リアルだ」と言いたいのだった。つまり、意図的にか結果的にか山崎貴監督が描い(ちゃっ)たのは、職業軍人たちが死に絶えた、「ヒトラー 〜最期の12日間〜」(2004)ばりに、「まともにやってらんないよ」という世界だったし、そもそも原作はそうだった。(脚注)

いや、当然、バーホーベンの「スターシップ・トゥルーパーズ」(1997)とか、ジェームズ・キャメロンの諸作品が描くように、性別の無い未来世界の軍隊というのが正しいと思うよ。

そういう風に撮れないものか?と思ってもみたが、それはそもそも「ヤマト」じゃないもんね。
だって、「宇宙戦艦ヤマト」というのは、こういうアニメだし。

というか、なにより、そういう現場は日本にないもん!
ルックスばかりで使えなさそうな若い奴等に囲まれてキレながら、美しい過去の体験(バブル時代)を後生大事にしている中年のダメ主人公。ツンデレの年下OLと、「お前だけは解ってくれるよな、経営側の方の辛さ。俺はもう死んじゃうからどーでもいいけど」という年寄りの上司。
なんだ。ちゃんと、山崎監督は現状認識を描いてるじゃないか!
まぁ、続編も作ればいいんじゃないですか。金子修介版とか、樋口真嗣版とか。辻褄が合わなくてもいいから。
というか、「ヤマト」というのはそもそも辻褄が合ったことはないものなのだ。
(本当におわり)
脚注(以下、ネタバレ)
正確には「もう、まともにやるための“大きな物語”なんて、とっくにないもん!やってられるかよ!」だ。その時に「俺は物語を信じてるもんね!ないなら作るもん!」という沖田艦長の妄想が、「信じること」により本当になるという内容をのうのうと描く山崎貴という人は、西崎義展というよりはミヒャエル・エンデやディスニー的感性と思う。だから、この映画とはSFというよりファンタジー映画。
ホラ吹きの旅の顛末という意味では、この映画はヴェルナー・ヘルツォークの「フィッツカラルド」(1988)とか、ポール・セロー原作の「モスキート・コースト」(1986)の再映画化に近いように思える。