
「SUPER8」で感心したのは、容易なハッピーエンドで終わらないところだ。
事件は解決し、反目し合っていた親子や人々も和解しするのだが、ハッピーエンドと彼等の未来を予感させる要素が、必ずしも幸福には一致しない、アイロニカルな構成になっている。
舞台は1979年だから、カーター政権下のアメリカだ。
くたびれたとはいえ、リベラリズムが残っていた時代だろう。少なくとも、21世紀に「リベラル」が政治的な攻撃材料になるなどとは、想像もしていない時代だ。
この映画で最も印象的な登場人物というのは、トラブルメーカーである、美少女の父親(写真右端のドアーズみたいな髪型の、ロックファンとおぼしき人物)だ。狭い町の中での少年時代からアウトサイダーで、アル中で、妻は逃げ、娘を怒鳴るこの父親は、町の庶民派エスタブリッシュメントである主人公の父親(写真左端)とは対照的に、若者の時の価値を引きずって生きている。やけのやんぱちになっているこのオヤジというのは、60年代からの自由主義の末期的な状況(ジタバタ)を象徴している。(マリファナ中毒のカメラ屋の青年は、形骸化した60年代を象徴している。)
ベトナム戦争後の、アメリカの(良くも悪くもの)楽天主義と理想主義が破綻した閉塞感は、アメリカ映画ではパニック映画ブームを経て、ジョージ・ルーカスの「スターウォーズ」(1977)や、劇中映画でも名前が引用されるジョージ・A・ロメロの「ゾンビ(Dawn of the Dead)」(1978)といった、アナーキーなカルト映画に収斂されていく。混乱する親たち(の世代)を尊敬できない少年たちが、ゾンビ映画制作に傾倒していくというのは、時代の不穏さへの嗅覚であり、極めて正しい。
この映画の翌年(1980年)の大統領選ではレーガンが勝利し、(パパ)ブッシュへ続く12年の共和党政権が始まる。ジョン・レノンは撃たれ、翌年にはMTV(ケーブルテレビ)も開局して、ロックの世界も「反抗」から「コマーシャル」に大きく様変わりしてゆく。(おそらく、件のロックオヤジの命綱は、グレートフル・デッドと潜伏していくだろう。)やがてレーガノミックスのバブル経済が始まり、今日のグローバリゼーションの下地が作られていく。
「SUPER8」の登場人物たち(大人も含め)は「家族の価値」を再認識して映画は終わるのだが、「家族の価値(ファミリーバリュー)の復権」とは、まさに共和党政権(というかキリスト教原理主義者)のスローガンであり、アメリカの保守化への価値観の柱の一つでもあった。
また、空軍に対してヒーローとして活躍する、主人公の父親の職業が、ジャーナリストなどではなく警察官というのも暗示的だ。正確には、劇中で父親(と警察官たち)は隠密的に、ほとんど自警団的に行動するのだが、ガーディアン・エンジェルス(1979年結成!)から現在のティー・パーティー運動まで、その後の、国(民主党的なもの)に頼らない草の根の保守派の心象の、絵解きがこの父親の行動なのである。つまり価値観については、保守の父親と、ゾンビ映画に憧れる息子(主人公)は、和解などしていないのである。
とはいえ、「SUPER8」がじんわり描いているものは、アメリカの保守化前の風景、追憶なのである。
今回の事件を経た後、おそらく、工場に支えられたこの町は衰退をたどることになる。
海外(日本企業ですな)との競争の中で、企業はアジアへ生産の拠点を移し、他の地域と同じように工場は閉鎖されるだろう。アメリカのものづくりは空洞化し、1986年にはメイド・イン・USAのスペースシャトルは事故を起こす。
だから、本作の続編が作られるとしたら、マイケル・ムーアの「ロジャー&ミー」(1989)やオリバー・ストーンの「ウォール街」(1987)、可能性が低い再生例としてロン・ハワードの「ガン・ホー」(1986)と酷似したものになると思う。
この映画が日本人の琴線に触れるとしたら、それは現在の日本の有り様と、アメリカの「その時代」にオーバーラップするところが多いからだろう。